あなたの感情は誰のもの???
みなはぴ探検隊・オブザーバーのMinna です。
今回は、「感情は実は自分のものではない」というお話をしていこうと思います。
今回も、この記事の最後に動画を貼り付けていますので、よろしければ参考になさってみてください。
そもそも「感情」って何? どうなっているの?
私がこの事実に気づいたのは、今から15-20年ほど前だったでしょうか?? うろ覚えなので「正確にいつだった」という記憶がないのですが、
自分の人生で「かなり辛い」と思っていた時期に、
あれ?
「感情」って自分のものじゃないのかも???
と、そう気づいたのです。
(今覚えば、自分で「辛い」という幻想の中に生きていたのですが・・(汗))
幻想社会で生きているかも???というお話はこのサイトでも何回かさせていただいているので、今回はこの内容については割愛させていただきます。
興味がある方は以下のリンクをご覧ください。
同じ現象でも受け取る「感情」は人によって違う
さて、今回の「感情」というテーマの話を掘り下げてみましょう。
感情というのは、皆さんご存知の通り「喜・怒・哀・楽」のことです。
嬉しい
怒り
悲しい
楽しい
これらは全て私たちの「感情」です。
よく自分の感情に振り回されて・・・という話が出る場合がありますが、「嬉しすぎて」「悲しすぎて」「怒りが収まらなくて」など、感情がどんどん大きくなりすぎて私たちの「行動を異常にしてしまう」ということがあります。
でも、実はこの「感情」をよく観察してみると、同じ状況に陥った人でも全く違う感情を感じている人が大勢いるということに気づきます。
私も主人の行動をよく観察することが多いのですが、
・え? なんでこんなことに「激怒する」んだろう?
・へぇ、、こんなことが「嬉しい」んだ・・・
というようなことも度々あるのです。
なので、主人と会話をしていて「急に主人が怒り出した場合」に、
「ごめんなさい、なんでそれで怒るのか?理解できないんだけど・・・
だって、同じ状況になった時に怒る人もいるかもしれないし、
怒らない人もいるかもしれないでしょ????」
・・・・と、切り返せるようになってきたのです。
実は、昔の私は主人にそんなことを言えるような性格ではなかったのです。
昔は、
主人が怒る→ わたし 何か悪いことした???
という思考を持っていたので、
いつも主人の顔色ばかりを伺っていたのです。
今思うと、「人の顔色ばかりを伺っている状態」って
自分に自信がない!
という状態だったんだと私は理解しています。
でも、感情の仕組みを理解してからは、
自分で思考や感情をだいぶコントロールできるようになってきた(まだ100%ではありませんが)ので、
論理的に主人に対しても伝えることができるようになってきたんじゃないかと思っています。
感情はどこから生まれたのか???
では、私たちの感情というのはどこから生まれたのでしょうか?
これを探っていくと、実は私たちが意図しないところで、私たちの概念と同じように私たちの身体に染み込んできたということに気付かされます。
動画でも説明していますが、例えば、子供の頃の経験で兄弟姉妹が多かった人は、「お菓子を分ける」ということでも感情が揺さぶられる経験をしてきた場合が多いでしょうから、
「お菓子や食べ物などを分ける」というだけで、怒りの感情が出てくるという方もいるかもしれません。
また、わたしの場合で言えば「体育」という教科がとても苦手だったので「身体を動かす」という行為に対しては、あまり良い感情が出てきません。
ところが不思議なことに、音楽を仕事にしていることもあるのか?
1、身体を動かす→ 悪い感情が出る(嫌)
2、音楽のために身体を動かす→良い感情が出る(嬉しい)
1も2も、どちらも「身体を動かす」ことに対するイメージなのに、「音楽のために」という修飾語が付くと、自分の感情も変わってくるのです。
つまり、
「感情」は「過去の出来事」に紐付けられている
ということになります。
例えば、以下の文章でも似たような内容に触れていますが、
雨(あめ)
と言う単語に、良い思い出がない人は
「雨」→ 嫌 ・不快
になるのでしょうし、
逆に、雨にとっても良い思い出が付随している人は、
雨 → 幸せ・楽しい
になる場合もあるでしょう。
このように、「感情」は「過去」と
とても強いつながりを持っていると私は感じています。
感情は、時と場所でも変わってくる
そして、感情の「不思議」は、実は、
時間
気温、
お天気、
景色
などといった一見「感情」とは全く関係ないものによっても変化があったりする場合もあります。
例えば、あなたが家を出てから目にする「お隣の家の庭木」を見て思う感情をよく観察してみると・・・
いつもと同じ景色を見ているはずなのに
・雨だとと「悲しい印象」として目に映ったり?
・とても光り輝く春の日差しを浴びると「暖かい印象」になったり??
という風に、景色にも感情がまとわりつくような場合もあったりするのです。
では、なぜ「景色にまで感情が感じられるのか?」というと、
景色、つまり「木や草」は「物質」ですから「事実だけ」を捉えれば、そこには「木や草」といった「モノ」しか存在しないはずなのです。
ところが、そこに自分の母親が大好きな「タンポポ」があったとすると、自分自身が「タンポポ」に「感情」をつけ加えてしまうという場合があるのです。
これは単なる一例ですが、物質には何の感情もないはずなのに、何かの景色を見ると悲しくなったり、逆に嬉しくなったり・・・といった感情をつけてしまう。
そして、感情が「私たちの過去」ととても強い結びつきを持っていることは前章でも説明していますので、ここでは割愛しますが、
アクシデントや、物質の存在を歪めてしまっているのは言うまでもありません。
嫌いな人、好きな人も自分がフィルターをかけているだけ
では、「嫌いな人」「苦手」な人というのはどうして存在するのでしょうか?
実は、その人はただ「存在しているだけ」なはずなのです。
1本の花が「私,美ししいでしょ?」と思って咲いてはいないと思うのです。
花は「花として存在しているだけ」で、
好かれよう!
綺麗に咲きたい!
美しいと思われたい!
とは思っていないはずなんですね。
なので、もしかしたら
世界中の人が 花 は 汚い
という概念を持っていたら、
花は「汚い」という感情を持つのかもしれません。
感情のフィルターを外してみましょう
これは私の昔の経験なのですが、
精神的に追い込まれた土地があった時に、しばらくその土地(街)に行けない(行きたくない)という時期がありました。
これも、その土地は土地として存在しているだけで、そこにある建物もそこに住んでいる人もただ「存在しているだけ」なはずなのです。
ところが、私自身が「辛かった」というフィルターをかけてしまっているので、そのまちが「辛い街」になってしまうという、面白い現象が起こってしまいます。
逆に、ディズニーランドなどは良い例だと思いますが、ディズニーランドと思っただけで気持ちがワクワクしてしまうという人も多いと思います。
これは、ワクワク(楽しい)というフィルターを通してその土地を見てしまっているので、人間がそう感じてしまうのです。
自分の感情を分析できるようになると・・・
前述のように、自分の思考と感情を自分自身で分析できるようになってくると、何かのアクシデントが起こった時に冷静な判断ができるようになってきます。
自分で判断ができるので、判断を人に委ねることもなくなくなります。
自分で判断ができる→自分に自信がつく
ということもあるのです。
いかがでしたでしょうか?
「感情は自分のものではない」というテーマについてご説明させていただきました。
一度に全てを理解するのは難しいとは思いますが、
少しずつでも理解していただければ幸いです。
興味がある方は、下の動画もご覧くださいね。
感情は自分のものではない
今日も応援しています。
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今日も訪れていただきありがとうございます。
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