引き寄せの法則「与えよさらば与えられん」
はぴはぴ探検隊・ひよこのSayakaです。
今回のテーマは引き寄せの法則にも関連する「与える」ということをテーマにお伝えしていきます。
引き寄せの法則をご存知ない方も、「与える」「与えられる」という経験は日々の様々なシーンで体験されていると思います。
今からお話する内容の中にも
「ひょっとしたら、あの時の…」とご自身の経験に当てはまることがあるかもしれないので、どうぞ参考になさってみてくださいね。
「引き寄せの法則」の与えるの意味って?
「与える」と「受け取る」というのは正反対の行為ですよね?
「受け取る」という行為の中には、無意識に「欲しがる」という気もちが隠れている場合もあります。
そして、これらの行為は、日々の何気ない行動や言動にその人の本当の気持ちが隠れている場合も多いです。
この「与える」「受け取る」という人間のパターンをざっくりと分類すると、
大きく分けて以下の3種類のタイプに分類できるのではないでしょうか?
1. 与えることが多いタイプの人
2. 与える・もらう半々ぐらいのタイプの人
3. 欲しがる場合が多いタイプの人
私自身(筆者・ Sayaka)も、もかつては3番の欲しがるタイプの人間であったと自覚しています。
今は1番の与えるタイプの方々と行動することがなぜか多くなり、その人たちの行動や言動を見習いながら、2番から1番ぐらいの間にいるかな?と自分では思ってはいるのですが、事実はどうでしょうね?
自分のことなのでよくわかっていません。(汗)
「くれくれ族」から「与える族」への転身?
あくまでも、これから書くことは私自身の自己評価なので、人によって他人の見方は異なるかもしれませんが、
今回は3番の欲しがるタイプの人間であった私が、
なぜ1番の「与える」ということに興味を持ち始めたのかを
お話していきたいと思います。
興味のある方はどうぞお付き合い下さいませ。
欲しがるタイプは“クレクレ族”!?
これは私の感覚なのですが、3番の欲しがるタイプの人の大きな特徴は、「自分が与えたもの」をしっかり覚えていることじゃないか?と私は思っています。(私の感覚です)
ですから、自分が他の人に何かを与えた場合、そのお返しが「与えたもの以下」だった場合に、その人の感情は大なり、小なり、高まるようです。
「え?私があげたものよりもお返しが小さいとか?安いとか?」・・・
または、先に与えてもらうことが大前提であり、
なんでもかんでも
「人から与えてもらうこと」
を考えているタイプの人がいます。
私は、このような人たちを“クレクレ族”と表現することがあります。
クレクレ族が生まれる理由
クレクレ族が生まれる要因は、自分に対する何らかの欠乏感からです。
「足りない」という気持ちがあるため、常に「足りないものを補うために何かを欲しがり」ます。
分かりやすい例としては、通常お腹がいっぱいの時に食べ物はいらないですよね。
でも、お腹がいっぱいなのにも関わらず、何か食べていないと不安になるケースの代表例がダイエット過食症です。
沢山食べて、次は食べない…このような行動を繰り返しているうちに、
脳が「次いつ食べ物が食べられるか分からないから、蓄えよ!蓄えよ!」
・・・というある種の「体への栄養が不足する危機感から生じる脳の指令」となり、
満腹なのにも関わらず、もっと欲しい!
という欲求が生まれるわけです。
クレクレ族にとって、
自己承認や自信など「精神面での欠乏感」が大本になっている場合は、
その不足感は目に見えないものであるため、
本人が無自覚のケースというのも多いです。
ですから、自分でも知らず知らずのうちに
“クレクレ族”になっていたりするわけです。
クレクレ族は他人からの評価がとっても気になる。
「精神面での不足感」が元になる“クレクレ族”の特徴は、
「他人からの評価」を気にします。
心の欠乏感を
他人から褒められることで埋めようとするため、
他人の言動や評価が気になり、思うような評価を得られない時、
「嫉妬」という感情や「怒り」という感情で表に出てくることもあります。
「私はこんなに頑張っているのに!!!」
と自分の頑張りを認めてもらえないことを嘆き一人相撲をしているような人…
自分に身に覚えがある方、またはあなたの周りで思いつくような人はいるでしょうか?
仮に他人からの誉め言葉や評価が欲しいような場合も、
次に書かれている「与えよ、さらば与えられん」が解決のヒントになるかもしれません。
与えよ、さらば与えられん
キリスト教の聖書でも語られる有名な言葉です。
「与えよ、さらば与えられん」
世の中に長く語り継がれる言葉の中には、魔法のようなヒントが隠されています。
この文章は、
「与えられたいのならあなたが先に与えなさい。
そうすれば巡りにめぐって与えられるでしょう。
逆に与えなければ与えられることはない。」
という至ってシンプルかつ明確な意味です。
しかし現実社会でこれが実践できているかと言われると、少々別問題です。
1番の与えるタイプの人達は自分が与えているという感覚がないようです。
与える人は、与えたことを覚えていない
実は私の周りには1番の与えるタイプの人達が多い気がしています。
職業柄かもしれませんが、私は色々な人から多くの物を頂くことが多いので、ふと疑問に思ったことがあり、私が思う与えるタイプの人達に聞いてみたことがあります。
「なぜこんなに色々下さるのですか?」
すると予想もしない答えが返ってきました。
「えっ?そんなに
何かを差し上げましたっけ?」
その時は「えぇー!!!!!」と思いましたが、1番の与える側にいる方々は、どうやら自分ではほとんど与えているという感覚がないようです。
与える側の人達の言動や行動を観察していると、
「与えるのが当たり前」という感覚で生きているように私には感じます。
そして興味深いことが私の周りにいる与える方々は、経済的にも精神的にも豊かであるように見えるということです。
与える人は、心も経済も豊か???
事実はよくわかりませんが、
私の周りの「与える人たち」は経済的にも心も豊かな人が多いように感じています。
経済的・精神的に豊かであるということについては、
一般的な定義や基準がないので何とも言えませんが、
年齢や立場などは異なってもそれぞれの「幸せの形」を成しているように思えます。
そして様々な哲学書やビジネス書、自己啓発の類の本には
「豊かにになるためには“与えること”を実践しましょう」
という“与えよ、さらば与えられん”と
似たような意味を含む文言が高確率で書かれています。
豊かな状態とは、物があることではない。
豊かであるということは、感じる本人よって左右されるものなので、
社会的キャリアや
物質的に豊かであることは
一切関係ないと言い切ってしまって良いと思っています。
実際、インドネシアに住む現地の友人は、日本と比べてみたら経済的にも、物質的にも貧しいですが、
彼らは日々を楽しむことを満喫しているように思います。
つまりどんな状況であろうと豊かさを感じられる人になれれば、それぞれの幸せの形を成せるということです。
神社ミッションやってみる?
神社ミッションというのは、私が実際に実践した方法のひとつです。欲しがり屋さんでいるうちは与える側の感覚を知ることはできません。
神社ミッションとは、
「神社にお賽銭を入れる」
これだけです。
神社でなければいけない決まりはありませんが、神社だったら気持ち的にやりやすいという事で神社ミッションと呼ばれているようです。
ポイントとなることが
「与えたものが返ってくる」
ということを納得するためのミッションなので、神社に寄付した額に相当する何かが戻ってきた時に
「あの時寄付したお金が戻ってきた!」
と実感できる金額である必要があります。
そのため何百円という金額だと分かりにくいため、神社ミッションでは1万円という金額設定があります。
ここで強調しておきたいことが、一点あります。
1万円を寄付したら、1万円というお金が戻ってくるわけではありません。
1万円を寄付したら、1万円相当の何かが戻ってくるということです。
1万円相当の何かとは、物かもしれないし、情報かもしれないし、経験かもしれないし、時間かもしれないし…
その人にとって「1万円に相当するエネルギー」が返ってくるということです。
神社ミッションやってみた結果…
意識的に「与える」という行為(神社に寄付をする)をした結果ではありますが…
「見事に返ってきました!!!!!」
この「与える」「戻ってくる」ということを繰り返し体験し始めると,
「与えること」が当たり前の習慣として定着していきます。
自分が「与える」という行動をすることで、それが誰かの役に立ち、巡りにめぐって自分の元に帰ってくる。
この循環を感じられるようになってくると、とても気持ちが良いのです。
つまり私にとって「与える」「与えられる」という行動も、血液と一緒で循環することでより気持ちの良い自分でいられるという感覚です。
欲しがり屋さんだった時の自分とは違う世界が広がり、なんだかんだで2、3か月おきに海外にいけるような生活にシフトしています。
間違いない私の事実としては
「クレクレ族でいるより与える側の世界はずっと心地が良い世界」
だということです。
興味をもたれた方は、まずは神社ミッションから始めてみてはいかがでしょうか?
あなたの世界観が広がるきっかけになれば幸いです。
今日もお付き合い頂きありがとうございます。
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