ラーニングピラミッドで学びを加速させるは嘘?

ラーニングピラミッドで学習の定着率は上がる?

 

こんにちは。Sayakaです。

今回は、学びの定着率についてのお話です。

皆さんは「ラーニングピラミッド」という言葉をご存知ですか???

ラーニングピラミッドというのは、アメリカの国立研究所が発表した学習定着率のことです。

 

その内容を説明させていただくと、
「何をすれば、学習定着率が上がる?」という指標をパーセンテージで示したものと言って良いでしょう。

授業を受ける:5パーセント
教科書を読む:10パーセント
視聴覚学習:20パーセント
デモンストレーション:30パーセント
複数人で討論する:50パーセント
自分で体験する:75パーセント
誰かに教えてみる:90パーセント

この数値を根拠に、
「人に教えるのが一番の学習である」「自分自身で体験してこそ身につく」
などと言われるわけですね。

ただし、この「ラーニングピラミッド」という理論には大きな罠があったのです。

◆ラーニングピラミッドに潜む罠

実は私自身もラーニングピラミッドの内容をずっと信じていたのですが、最近の研究で「ラーニングピラミッドの各種数値には根拠がない」ということが判明したのです。

この「根拠」というのは「科学的根拠がない」という意味です。

なんでも「様々な資料や実験をキリのいい数値になるように恣意的に組み合わせたもの」というのがラーニングピラミッドの正体のようです。

私もこれを聞いた時にはちょっとショックでした💦

実は、似たような話があり、

「メラビアンの法則」も同じように科学的な根拠がないそうです。

このメラビアンの法則の内容をご説明すると、

人間が 会話の中からどれくらいの情報を受け取るか?というものをパーセンテージで表したものです。

言葉から7パーセント
声のテンポ・大きさ・声質から38パーセント
表情・しぐさ・身だしなみ・見た目から55パーセント

の情報を受け取るのだそうです。

このメラビアンの法則をもとに

「結局人間は、人の話なんて聞いていない」というような論説が出ることがあります。

実際、そういう言い方をするネット記事などを見たことがある方もいるのではないでしょうか。

しかし、この「メラビアンの法則」にもほぼ根拠はありません。

話が長くなりますので、この話の詳細は割愛しますが、

そもそもメラビアンの法則の元となったメラビアン博士の実験では、
「メイビー(多分)」という言葉を色々な声質・大きさ・テンポで何人かの被験者に聞かせただけなのだそうです。

この「メイビー」という言葉だけだったなんて、これを「会話」というには無理がありますよね。(笑)

言葉がない状態で93%の情報を受け取れるとするならば、私たちはエスパーです(笑)

 

◆それでも、私が日常生活において感じたこと

 

それでも、私自身が 日常生活の中で

・ラーニングピラミッドの話や
・メラビアンの法則

に関して感じていることをお伝えしようと思います。

これら「ラーニングピラミッド」や「メラビアンの法則」にはあくまで科学的根拠がないというだけなのですよね。

「全くのデタラメである」とか「事実とは正反対のことを言っている」ということを言っているわけではありません。

例えば、「類は友を呼ぶ」という地球の法則のようなものがありますが、これもおそらく科学的な根拠はないと思います。

でも、私自身、このルールは地球上に存在すると思っていますし、おそらく「類は友を呼ぶってあるよね・・・」と思っていらっしゃる方も多いのではないかと推測します。

 

ここで、私の勝手な見解を述べさせていただきますと、

ラーニングピラミッドに関しては

「ただ授業を受けただけよりかは、やっぱり人に教えた方が記憶が定着するな」と感じます。

また、メラビアンの法則についても

「表情に気を付けて身振り手振りも交えた方がより伝わってくる」ような気がします。

私たちは、「ラーニングピラミッド」や「メラビアンの法則」が正しいものだという認識のもとでは、

「やっぱり授業だけじゃなくて、人に教える方が勉強になる」「誰も人の話なんて聞いてない」と言ったりします。

反対に、2つの法則が間違っていたと聞いたら、
「人に教えても大して意味なんてない」「身振り手振りとかどうでもいいんだ」と言ったりします。

このとき、科学的根拠それ自体の正しさについては特に考えることなしに、

私たちは自分の日常生活にとってそれなりに矛盾のない発言をすることができてしまうのです。

科学的証拠がないものは本当に不確かなのか?

 

つまり、科学的文脈において正しいか間違っているかということと、
私たちがその結果(情報)をもとに自分の行動を解釈することは別のものとして成り立ってしまうのです。

私たちはある科学的理論が正しいから信じているのではなく、
私たちがそれを正しいこととして行動し続けているから、それが正しいことであり続けるということです。

このとき本人は、どういった感覚で発言しているのでしょうか?

・いろいろと考えた末に「授業だけじゃ足りない」と思ったのか?

・体感として「喋る言葉って案外聞かれないなあ」と思ったのか?

・経験した上で「あんまり人に教えてもなあ」と思ったのか?

今回の話の中でポイントとなるのは、

科学的根拠の正誤がどちらであったとしても

「あなた自身が」何を考え、体験し、感じているのか
それによって「どのような現実を手に入れているのか」ということです。

◆自分で考えてから判断したい

私がなんとなく感じているのは、
私たち人間は、自分で考えているようでいて、

実は「それっぽい感じ」で済ませていることが多いのではないでしょうか?

ときには、以下のことを意識して考える練習をしてみるとおもしろいかもしれません。

⭐️聞こえのいい言葉に飛びついていないか?

例:「辛い目にあっている人に同情するのはかえって失礼」とよく言われるから、とりあえずそうする

⭐️思考停止できる理論に逃げ込んでいないか?

例:「自分一人くらい○○しなくても全体には影響を与えない」に決まっているから○○しない

⭐️誰かが言っていることに流されていないか?
例:尊敬する○○さんが賛成しているから自分も賛成する

etc…..

上記に当てはまるようなことがありませんか???

もし、当てはまるようなことがあったとするなら、ぜひ「あなたの意思」がどこかにいってしまわないように意識すると良いかと思います。

このように自分で考えることができれば、
当たり前のこととしてあり続けている正しさに疑問を投げかけ、
別の視点をもつことができる可能性があるのです。

◆自分で考えるためには、自分が「知る」必要がある

私は職業柄、本記事以外にも様々な文章を書いていますが、

「世間一般に絶対的に正しいと思われていること」についても、
必ず改めて下調べをするように心がけています。

また、「この話題についての記事を書くのは久しぶりだな」ということがあれば、改めて調べて新しい情報が出ていたり、これまで正しいとされていたことに間違いが見つかったりしていないか調べるようにしています。

ラーニングピラミッドの件も、実は学生時代に聞いていたことがあり信じていましたので、

今回調べてみて「根拠は薄い」という事が分かりビックリしました。

メラビアンの法則についても同様です。

ですから「知らないということは恐ろしい」、

もっと言えば
「知っているつもりになって、知ろうとしないことは恐ろしい」
と感じます。

そして、知ることができたら「考えてみる」ことが大事です。

例えば本記事では「自分で知って、自分で考えましょう」ということを主張しています。

自分で言うのもなんですが、これも「いかにも正しそう」ですよね。

しかし、これだって「正しそう」だからといって鵜呑みにはできないことかもしれないのです。

◆最後に

自分の中で正しいと思っていたことに、科学的根拠がないのかもしれないと知ることができたとき、

今まで自分が感じてきた正しさの感覚までもなかったことにする必要はありません。

そこから再び考えてみればいいのです。

もともとの実験の設定、証明のプロセスを追ってみたり、
学習内容によって、定着させるための行動が違うのかもと試してみたり、

自分が感じたことに対して、別の説明の仕方を見つけられるかもしれません。

情報は、そこにあるだけでは意味がありません。

考えて、実際に使ってみて、初めて自分にとって意味のあるものになっていくのだと思っています。

この記事がどたなかのヒントになれば幸いです。

今日も訪れていただきありがとうございます。

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