「依存」と「共存」「共生」の3つの言葉の違い
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Minnaです。
今回のテーマは、
「依存」と「共存」「共生」、この違いについてお話しさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
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依存と共存、共生の違いをご存知ですか???
興味のある方は、ご自分で辞書でも調べてみてくださいね。
以下は、私なりの解釈を加えています。
私なりの解釈ですから、
それ「本当の意味と違う!!!」と思う部分もあるかもしれませんが、
今時点での私の解釈というところでお許しいただければと思います。
依存は寄りかかり?
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①「依存」は他のモノに頼って存在する、または生活する、生きていくことです。
②「共存」とは文字の通り、2つ以上のものが、共に生存、存在することです。
③「共生」も文字の通り、2つ以上のものが、共に生きていくことです。
もうちょっと掘り下げてみますね。
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①の依存は、自分で努力せず相手に寄りかかってしまっていてそれがなくては生きていけない状態になっています。
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この「依存」は、心理学では、行為や思考のコントロール障害といわれることもあるそうです。
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②の「共存」の方がお互いの存在を受け入れていて、対等性がある印象があります。
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そして③の共生は、共に生きる。
それぞれが寄りかかりもせず生きていく、そんな印象です。
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つまり、共存・共生(②と③)は お互いが自立・尊重されているのに対して、
①は、寄りかかってしまっていると言えそうです。
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頼るのはダメなこと????
人間が、自分一人で出来ることは限られています。
ですから、他人やモノ、組織、などに頼ります。
そして、頼る事はいけない事ではありません。
とはいえ、
A, 頼る事でボジティブな方向に向かうのか?
B,ネガティブな方向に向かうのか???
Aか?Bかの違いによって
その行為(その対象物)に対して
「依存」なのか?「共存」なのか?が決まるのかもしれません。
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日常生活での依存と共存
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では、もう少し日常の生活の中で「依存」と「共存・共生」が私たち人間とどうか変わっていくのか???
具体的に見ていきましょう。
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日常生活では、
◯食洗器
◯お掃除ロボット
◯自動調理器
これらに頼ることで、
自分の時間や家族と過ごす時間が出来て
より生活を充実させている人が大勢います。
食洗器、お掃除ロボット、自動調理器と上手く共存している人は、
万が一食洗器(お掃除ロボット・自動調理器)が無くなっても
不便に感じる事はあっても、パニックになることはありません。
自分で洗えば良い!と気持ちを切り替えることができます。
ところが、これらの家電に依存している人は
食洗機(お掃除ロボット・自動調理器)が無くなったら、とたんに生活できない!とパニックになります。
食洗器くらいで
パニックになる!!!と思われる方は
「冷蔵庫だったら?」
「洗濯機だったら?」
「携帯電話だったら?」
と対象をより身近なモノに置き換えてみてください。
イメージしにくい方は、別の例を取り上げてみますね。
例えば、電気。
原発がなかったら、電気が足りないってのは依存。
この場合は電気に対して足りないところを求めていますね?(汗)
原発のおかげで、よりよい電気環境があるってのは共存。
依存と共存の違いって、
それがなくなると
「ネガティブに捉える」のか?
「ポジティブに捉えられるのか」ってこと。
前述の 家電(食洗機、お掃除ロボット)と同じですね。
無意識に依存してしまう(無意識の罠?)
私達人間は知らず、知らずのうちに多くのモノに「依存」してしまいます。
これが本当に不思議なことに「無意識」、知らず知らずのうちに「依存しちゃっている」というのが現実です。
とはいえ、
食洗機も、お掃除ロボットもそして「電気」でさえも、どれも所詮「ツール(道具)」です。
本来の目的は「快適にする」「楽にする」というのが目的であって、その道具自体が目的ではないのです。
確かに不便な生活にはなるでしょうが、生死にかかわるほど大きなことではないのです。
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依存なくても生きていけるということに気づく
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産まれたての赤ちゃんは、親に依存している・・・と感じる人も思いますが、実は違います。
親がいなくても、おばあちゃんでも生きていけます。
アル中の人もアルコールがなくたって生きていけます。
借金が1億円あったって生きていけます。
タバコだって薬物依存の人も、タバコや薬物がなくても
仕事がなくても家がなくても
生きていけます。
実は「依存」は、「勘違い」なのです。
すべては本当は「共存」「共生」なのです。
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すべては、本当は「共存」「共生」なのに、自分で自分の世界を作り出してしまう。
その自分で作り出した世界= 依存の世界
↑↑↑
たったこれだけのことなのです。
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好きなものに依存してしまう???
では、好きなものはどうでしょう???
釣りが好きとか?
料理が好きとか???
ピアノ演奏が好きとか?
これらも 好きな分だけ無意識に「依存の領域」に入っている場合が多いので要注意です。
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釣りは無くなることはありません。(多分)
釣竿がなければ作れば良いし、海に行けば釣りはできます。
料理も無くなることはありません。(多分)
調理道具に依存してしまう人もいるでしょうが、
本当に好きなら、素手でも料理しますね???
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ピアノ演奏はどうでしょう???
ピアノがない環境だったら「音は楽しめない」のでしょうか???
そんなことないですね???
◯草で笛を作っても良いでしょうし?
◯口笛ならもっと簡単(^^)
◯なんなら ただ「歌う!」でも良いでしょうし???
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ピアノってただの「道具(ツール)」ですよね???
何の道具???
音楽を楽しむための「道具」です。
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大事なのは「音楽を楽しむ」→ 文字通り「音」を楽しむ。
もし、
◯釣竿に何かを求めている人
◯調理道具に何かを求めている人
◯ピアノに何かを求めている人
これらは、ただ「存在しているだけ」。
「あれがないと生きていけない」とか
もし、そうなってしまっていたとしたら、
自分の可能性を小さくしているのかもしれません。
あれがなくたって、生きていけるんです。
そして、ひとりで生きていくことが出来るのです。
◯
依存の大きな落とし穴
実は、「依存」には大きな落とし穴があります。
それは「見返り」です。
◯
私はこれをするから、あなたはあれをしてねーーーという(汗)
そして 私はこんなにたくさんのことをして(あげている)んだから、その分返してよね!と見返りを求めたりして???
◯
釣竿さん、包丁さん、ピアノさんの立場に立ったら、たまったものじゃないかもしれません(汗)
私が 釣竿さんだったら、包丁さんだったら、ピアノさんだったら・・・
そう思うとシンドイです(汗)
だって、不恰好だろうが、機能的に優れていなかろうが、それって その道具たちのせいではないので(涙)
釣れないのは「釣竿が悪い!」
↑↑↑
だったら ちゃんと手入れしてよー
だったら、別の釣竿使えば?
そもそも その魚を釣るのに 私(この釣竿)は向いているの??
とか反論したくなるかもです。
うまくいかないのを 私のせいにしないでよーーーーと突っ込みたくなるかもしれません。
◯
共存できない「ヤキモチ」とは???
◯◯
実は、そのものに「依存してると勘違いしてる人」は、周りが見えなかったりする場合があります。
そのモノ(ツール・道具)と共存できている人を見て、ヤキモチ焼くんですね。
あなたには、これが出来るけど、私には出来ない!
あなただけいいわね、 どうせ私にはできないからー
↑↑↑
それって本当にそうなのでしょうか???
「あなたはできていいわねー 私にはできないからー」
この言葉、とても違和感ないですか???
あなたはできて
私はできない
なぜ 「あなたと私」を比べるのでしょうね???
それって
トランペットとコルネットを比べているというか???
ピアノとオルガンを比べているというか???
そもそもなぜ比べるの???という気もします。
◯
そしてそればその人が「出来ない」と、勘違いしてるのかもしれません。
今日はできないかもしれないけど、明日はできるってこともありますから(笑)
◯◯
それで、ヤキモチ焼かれたほうも、たまらないですね???
「それ、私のせいじゃない!!!」ってなりますね???
実は、依存は「していてはいけない」モノなのです。
頼るのは良いけど、「依存はアウト」です。
依存しているということは、その人がその人自身を小さくしてしまっているのです。
本当にもったいないです。
自立した上で、相手を「尊敬しあう」と結構色々なことがうまく回り始めます。
共存し合うとは???
相手が道具なのか?人なのか?で共存し合う形は変わってきます。
花はそこに咲いているだけ
例えば、人間ではないモノの場合、
花に例えるとわかりやすいかもしれません。
花だって、「私キレイでしょ???」なんて思って咲いてなんかいません(笑)
人間が勝手に「癒やされている」ただそれだけです。
(その人がその世界を作り出して)
ギターも「そこにある」だけ
ギターも ここに「存在しているだけ」ですね?
そして「音を出すのは?」紛れもなく人間です。
とはいえ、人間がギターに期待するって変ですよね???
ギターが美しい音色を出せるかどうか???は それを演奏する人間の腕にかかってきます。
ギターからすれば、ちゃんと音を出せない人間が悪い!となります(笑)
ギターと人間の場合の共存、強制は、お互いが自立することというのがご理解いただけたのではないでしょうか???
スプーンも包丁も「そこにある」だけ
スプーンや包丁に何かを求めるという場合もあるようです。
中には「握りやすさ」とか、包丁なら「切れ味とか???」これって、求めている主語がすれ違っていることにお気づきでしょうか???
求めているのは「誰???」となった場合、求めているのは「人間」ですよね???
だったらその人間が、
◯握りやすいスプーンを探せば良い
◯切れ味が良くなるように研げば良い
スプーンや包丁に期待されても、スプーンや包丁さんは困ってしまいますね?
だって そのスプーンや包丁さんは、そこに存在しているだけなので。
外食だったら????
外食は、しなくても生きていけます。
ところが、そこに便利さとか、おいしさとか、安らぎを求めて「共存」します。
そして、食事を作った調理人やお店の人に感謝をしてお金を払って外食をします。
これが、共存です。
お互いに利があり、お互いに感謝があります。
利用する側は、外食の空間や食事に対しての「感謝があり、それに対してお金を払う」。
利用してもらう側は、そのお金をいただくことでお給料となり自分自身の生活の糧となる。
どちらかだけが得をして、どちらかだけが損をするということはありません。
これが共存・共生です。
究極の依存?(汗)
私はしてもらうけど、あなたには何もしませんというのが「究極の依存」です。
先程の「釣りの話」で言えば、手入れもしないで「釣れないと文句を言う」。
ギターやピアノの話で言えば、チューニングや練習もしないで「良い音が出ない」と文句をいう(言わなくてもその世界に居続ける)
これが「究極の依存」と言えるかもしれません。
いきなりは難しくても
少しずつ、無いとパニックという依存対象を減らして
そして それが「あることに感謝できる」=共存の関係
これが出来上がってくると自分で自分を苦しめることも無くなってきます。
依存対象に、コントロールされるのではなく
自分を知っかりと持ち、どんな時でも
気持ちを上手に切り替えられる生き方を選ぶ、
それが、上手に共存できるということなのかなと思います。
この文章が、何かしらの生きる上でのヒントになれば嬉しく思います。
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